釜屋修先生のご逝去

 2月2日の夜、電話が鳴って珍しい人から連絡があった。すぐ続いて、メールでも2日の未明に釜屋修(かまや・おさむ)先生がお亡くなりになったことが知らされた。
 今年の年賀状の返事として、釜屋先生から体調の悪い切迫したはがきをもらった。なんだか「変な」はがきだと思っていた。自分の病状が悪いことを公言するのは、普通ならやらないものだ。私のように自虐的にしょっちゅう言っているみっともない者とは違い、釜屋先生は礼節を心得ている人である。なるべく弱みや愚痴を言わない人である。言わない人ではあるが、釜屋先生にだって愚痴や弱みがないわけではなく、安易に他人に喋らないだけだ。例えば、日本中国学会を駒沢大学で開いた時も、準備から当日の運営まで、いや、そのあとの処置まで、ひとりめまぐるしく働いて実行した。でも、それに見合う評価も慰労もなかったと強く意識されていた。つい漏らされた、国立大学系統に偏りがちなモノの運びに対する不満を釜屋先生から聞いて、私はさもありなんと頷くしかなかったが、それでも遠慮がちに言う彼の口元を見つめて、相当の経験があるなと思って同情したものだった。
 釜屋先生に会ったのは、1986年の第2回趙樹理学術討論会であったと思う。山西省太原で董大中氏が中心となって開かれたのだが、我々は上海から入った。釜屋先生とは上海から一緒だったが、彼は奥さんと一緒に来ていたので、そんなに話をしたわけではなかった。この時は、埼玉県からも山西省との友好姉妹省県として加藤克己氏と桂英澄氏とが参加していた。この会は私にとっては実に収穫の多い会であって、例えば、山西大学に留学中であった加藤三由紀さんともその時に初めてあった。加藤克己氏も有名な歌人であったし、桂氏も太宰治のエッセイに出てくるような文学者であった。また賈植芳氏にも、賈先生の付き添いで付いてきた陳思和氏とも面識になった。時に「済公」の歌が流行していた。
 釜屋先生は先に『中国の栄光と悲惨――評伝 趙樹理』(1979年11月、玉川選書111、202頁)という本を出していたので、日本での趙樹理学の大家であったし、私より年上である。だから、日本団の中では私は一番ビリだと思っていた。上海では丁景唐氏などが作家協会上海分会の招宴に出てきた。この魯迅や左連の研究家として有名な人の出現がどんな意味があるのか、釜屋先生も私もわけがわからなかった。今なら、長いこと奉賢の五七幹部学校に下放していた丁氏の名誉回復の意味があったのだということに気づいたのであろうが、それはずっと後のことだ。
 釜屋先生は専著もある大家である。平易な語り口で趙樹理の一生がわかる良い本だ。そして、題名といい、時期的な出版といい、スマートな出現であった。私には何もまとまったものがないから、釜屋先生は私には当面の目標としてのライバルでもあった。だから、ずっと私はツンケンした態度で接していたように思う。ちょうど、賈平凹の『廃都』という小説が話題になった時でもあったから、その評価をめぐって、食事の時論争などもし、生意気なことを言ったと思う。
 中国作家協会山西分会の主催で第2回趙樹理国際学術研究会が開かれたのだが、そのオプションで、汾酒の工場見学があった。杏花村の工場では、いかにも酒が好きそうな温栄副工場長が応対した。ちょうど昨日が中秋節だというので、今日は休日のところ、わざわざ一部を開けて見せてくれた。こんな時、団長が体(てい)の良い挨拶をすれば、副工場長も喜んで大判振る舞いをするのであろうけれど、団長と目される加藤氏も釜屋先生も何も言わなかったので、私も黙っていた。副工場長は不機嫌になって、さっさと引っ込んでしまい、美味しい汾酒も飲むことなく終わってしまった。私は、釜屋先生も気のきかない人だなぁと思っていたが、よく考えれば、実に実直なケレン味のない先生であったのだ。
 そのことは、1997年に山西分会の董大中氏と席揚氏が日本に来た時の接待でもよくわかった。私が招いた董大中氏と席揚氏であるが、東京方面のことの面倒を頼んだとき、釜屋先生は快く引き受けてくれた。彼は塩旗氏に自動車の運転を頼んでいろいろ面倒を見てくれた。また、中山大学の黄修己先生が来た1998年には、伊豆の温泉に2人して泊まり、夜を徹して話をしたそうだ。福州の冰心文学館の王炳根氏が来た2005年の時には、日本中国当代文学研究会で会を開いて講演をさせてもらった。その夜は会員によって、歓迎の宴会を開いてくれた。みんな私が受け入れた先生方であるが、嫌な顔もせずに接待してくれた。でも中国の人はすぐお礼を言うわけでもなく感謝するわけでもないのが普通だ。釜屋先生はなれているとは言え、いささか不満であったようだ。私がこれまた遅れて礼を言った時には、彼らはウンでもスンでもないと言っていたから。
 塩旗氏の結婚披露の宴会は、塩旗氏が彼の愛弟子になるからであろう、釜屋先生が後ろ盾になって、華やかな披露の会ができた。これには、いささか驚いた。また、塩旗氏の奥さんになる女性がなんとかつての私の教え子であったので、私は東京まで行って宴会に出席した。その披露の会の縁の下の力持ち役であった釜屋先生が、会場では実に謙虚に目立たぬ風にして写真を撮っていたのをこの目で見て、私は、ゆかしい先生の人となりに強く胸を打たれた。
 釜屋先生は『日本中国当代文学研究会会報』という研究誌に、「中国文芸家REQUIEM」という欄を連載している。これは大変便利で有益であるが、その後ろに「私的備忘録――忘れえぬ人びと」という欄がついている。この号までにお亡くなりになった中国人のリスト以外に、「私的」と冠したように、釜屋氏の個人的な思いを込めた故人も一緒に掲載されているのである(時には中国人も入っている)。だから、日本人ばかりではなく、アメリカ、ロシア、フランスなどの人があげられる。亡き人の名を恣意的に連ねるだけのことに一見見えるが、そこには同時代をいくらかでもともにした人への追慕の思いが満ち溢れているのだ。それは、恰も亡き人の名前を書くことによって自らの生の一部を裂け与えるかの如き、辛いよしなしごとであるように思える。でも、ただに辛さだけではなく、喜びもあったし楽しみもあった人生の共感でもあったろう。
 そのことを示すかのように、釜屋先生の年賀状の返事の末尾には、「ありがとう感謝します。/みなさん、お元気で!!」と書いてあった。
 釜屋先生は良き指導者、良きオルガナイザーであったと思う。他意のない誠実な慈愛に満ちた釜屋先生のご冥福を祈ろう。

この記事へのコメント

houteng
2013年02月04日 11:49
 先生、ご無沙汰しております。後藤です。
 釜屋修先生がご逝去されたとのこと、謹んでご冥福をお祈りします。なぜ僕がコメントをするのか不思議に思われるやもしれませんが、修士一年の夏(99年)、関大で行われた釜屋先生の集中講義に出席したからです。
 そのとき、釜屋先生が大阪南部の旧友に会われるというので、実家が近かった僕は近所まで案内した記憶があります。その際、僕の将来の夢や彼女(今の妻です)とのことなど、たわいもない話にも真剣に乗ってくださり、非常に親近感を覚えておりました。
 最初から僕に「又兵衛」とあだ名し、出席者と一緒に学食で昼ご飯を食べたりと、大学院に入ったばかりで初めての集中講義という緊張が、釜屋先生のおかげですっと解消したことも思い出されます。
 とくに印象深いのが、釜屋先生は喫煙具に凝っているとのことで、たしかシャネルのたばこケースにダンヒルのライターを使っておられました。それがまた釜屋先生のお人柄と相まって、ごく自然にさりげなく使われるものですから、とっても格好良く感じたものです。一緒にたばこを吸い終わった後、僕の使っていた関大ブランドの百円ライターをおみやげにとプレゼントしたら、すごく喜んでくださいました。
 講義のあと、先生から出席者へ宛てた手紙が届きました。出席者一人一人に対するコメントに、釜屋先生の暖かさが本当ににじみ出ています。
 いま先生のブログを見て、釜屋先生からのお手紙を読み返しつつ、コメントさせていただきました。お手紙、これからも大事にしまっておきます。
邱羞爾
2013年02月04日 13:27
houteng同学:
嬉しいコメントをありがとう。思いがけない良い話でした。釜屋先生への良い追悼の言葉となるでしょう。
関大に集中講義に来たことを私は知りませんでした。もうひとり女性の方も、その時の良い印象を先ほどのメールで語ってくれました。私が在外研究員として日本にいなかったときのことでした。いろいろ私はお世話になっていたのでしたが、釜屋先生は誠実にきめ細かく立派にやってくださったのですね。人に楽しい懐かしい思い出を残すようにすることは、教師としてあるべき姿でありますね。君のコメントは本当に嬉しいものでした。
心より感謝とともにご冥福を祈ります。
Mucun
2015年06月06日 21:20
学生時代に釜屋先生からたくさんの指導を頂いたものです。
急に思い出し検索したら残念な事実を知ってしまい動揺しています。
釜屋先生との出会いが私を北京に向かわせ、結果的には現在の海外勤務にも繋がっていると思います。
今でも忘れないのは初めての講義で言われた一言
「君はすごい訛りが激しい中国語を話すね。」
福建省で中国語をかじった私には釜屋先生の発言が歌のように聞こえて北京へ研修する意欲が湧いたものでした。
ご冥福お祈りいたします。
邱羞爾
2015年06月07日 21:34
Mucunさん:コメントをありがとうございます。私の知らない釜屋先生の一面がよくわかり、あらためて良い人を亡くしたと、哀悼の念がわきます。誠実で優しさを持った先生でしたね。あなたが一言書いてくださったおかげで、良い供養ができたと思います。
どうぞ、Mucunさんが今後もご活躍されますように!

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